北部九州の大宰府の水城(みずき)や西日本各地の古代山城などの防衛施設を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。
665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。その大使らは、唐の高宗の泰山封禅儀式の際に唐に対しての臣従を誓ったとされる。
この際(665年もしくは671年の両説有り)に、2000名の唐の軍隊が倭国に進駐したとされる。唐との戦後処理については様々な見解があるが、いずれにしても倭国がその和平条件を受け入れたことは確かである。
天智4年(665年)2月(即位元年起算よると天智10年正月)、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功によりその縁者である鬼室集斯(きしつしゅうし)に小錦下の位を授けた(天智8年(669年)に近江国蒲生郡に送られる)。
667年、天智天皇は都を難波から内陸の大津京へ移し、防衛網を完成させた。『日本書紀』の667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきたという記載がある(「十一月丁巳朔乙丑 百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等 送大山下境部連石積等於筑紫都督府」)。
天智天皇は669年に河内鯨らを遣唐使として派遣した。彼は唐と友好関係を強化しようとしていたと思われる。百済の影響下にあった耽羅も戦後、唐に使節を送っており倭国・百済側として何らかの関与をしたものと推定される[1]。
一方、朝鮮半島では唐と新羅が666年から高句麗攻撃に入っており、2度の攻勢によって668年についにこれを滅ぼした。白村江の戦いで国を失った百済の豊璋王は、その後高句麗へ亡命していたが、捕らえられ幽閉された。
戦後、唐が百済・高句麗の故地を占領し、新羅に対しても政治的な圧力をかけていたが、それも長くは続かなかった。新羅は旧高句麗の遺臣らを援助し、彼らは669年に反唐の蜂起を行った。唐がこの掃討を行っている隙に、新羅自身も670年に旧百済領に侵攻し、唐軍を駆逐した。他方で唐へ使節を送って和議を願い出るなど、武力と交渉の両面をもって唐と対峙した。何度かの戦闘の結果、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の清川江以南の領土を新羅へ与えるという形式をとって両者の和睦が成立した。唐軍は675年撤収し、新羅の半島統一がなった。
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そのころ倭国では、671年に天智天皇が急死(『扶桑略記』では病死説の後一説として「一云 天皇駕馬 幸山階? 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」とあり山中での狩の途中に行方不明になったという記事を根拠にする暗殺説あり)すると、息子の大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立。翌672年に古代最大の内戦である壬申の乱が起こる。
これに勝利した大海人皇子は天武天皇(生年不詳?686年)として即位する。軍事力を背景として皇位に就いた天武天皇は専制的な統治体制を構築していき、新たな国家建設を進めていった。天武は遣唐使は一切行わず、代わりに新羅から新羅使が倭国へ来朝し、また倭国から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。これは唐の外圧に対して共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。
しかし、新羅が朝鮮半島統一の勢いを駆って侵攻して来る事を恐れ、海岸の防備を固めるなどを怠らず、両国の関係は持統天皇即位後、交流はあるものの、次第に悪化する事になる。
内政では、天武の死後も天武の進めた路線が継承され、それまでの倭国(ヤマト政権)は、「日本」という国家へと生まれ変わることとなった。「日本」の枠組みがほぼ完成した702年、文武天皇によって遣唐使が再開され、粟田真人を派遣して唐との国交を回復している。
一方、高句麗遺民の一部は698年、中国東北に渤海国を建国した。その後、渤海は新羅とは対立を続けるも唐からは冊封を受ける。日本は新羅との関係が悪化する中で、遣渤海使などで交流を深めていく。